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[サ−ビス]ベーツが唱えた"Mastry for Service"
パスカルの「瞑想録」(第2篇 気ばらし)の中につぎのような一節がある。「たった今、彼はボ−ルを打ち込まれたところなのだ。彼はそれを仲間の方へ打ち返さなければならない。彼はボ−ルが屋根から落ちてくるのを受けて、ワン・ストロ−クを得ようと夢中になっている」。屋根から落ちてくるボ−ルとは、当時のジュ・ド・ポ−ムのコ−トが室内にあって一方の壁面にひさしが取りつけられており、ここにボ−ルを投げ上げて相手コ−トに落とすのが、プレ−の開始方法であったことによる。このボ−ルを投げ上げる係りが、召使い(サ−バント,servant)であったことから、ボ−ルをサ−ブするサ−ビス(service)という名称が生まれたのである。
テニス競技の毎回のラリ−の当初に行われるサ−ビスは、もともと思いやりをもって相手方にボ−ルを送るものであった。「サ−ブを為す球手(server)は敵方の受手(strickerout)が準備整ひたるや 否やを確めんが為め所持するラッケットを頭上より高く差し挙げて相図すべし 而して敵方にても同法をなすときは始めて受手には用意整ひたるものと見做しサ−ブをなすべし 決して不意を襲ふを許さず・・以下略」(「ロ−ンテニス術」笠正澄 大学館 1903(明治36年)より)。横浜の山手公園において日本最初のテニスが異邦人レディ達によって行われた1878年(明治11年)より25年も後のテニス指導書にもその主旨は生かされている。
お互いの人格を尊重しあいながら、仲良く競い合うというスポ−ツの本質は、日常社会生活の中にあっての人間の生き方に十分に反映されていなければならない。学問や徳を練りみがくことを切磋琢磨というが、それは自分のためだけではなく社会の全ての人々のために、また大いなる自然の恵みにあずかる全ての生き物のために、なすべき努力過程であって、そこには心とからだの十二分の調整がなされて いなければならない。
「Mastery for service 、マスタリ−・フォア・サ−ビス」はまさしくこのことを言い表している。
OUR COLLEGE MOTTO
"Mastery for Service."
Dean C.J.L.Bates,M.A
Human naturehas two sides,one individual and private,the other publicand
social.There is a life which each man must live alone,into whichno
one elsecan enter. That is his personal individual life. But a man'slife
ismore than that. It has another side,which it shares with otherman.And
it is our duty and privilege to keep before our minds thesetwoside
of our nature. There is an ideal of life corresponding to eachside.One
is self-culture,the other,self-sacrifice. These ideals arenot contradictory,howeverbut
complementary. Neither is complete byitself,nor independent of theother.
Self-culture pursued for its ownsake produces selfishness. Self-sacrificeas
the only rule of lifeleads to weakness. But self-culture as a basisfor
self-sacrifice isnot only justifiable,but,necessary. And self-sacrificeon
such abasis is truly effective.
人間には、二つの面がある。一つは個別的、私的なものであり、他は公共的、社会的なものである。各人がただ一人で生きていかなければならない人生があり、そのなかに他人は入ることが出来ない。それがその人の個人的な面での人生である。しかし、人の人生とはそれだけのものではなく、他人と共に生きるという別の面がある。この二つの面を心して生きることは我々の義務であり特権である。この両面にはそれぞれそれに見合う望ましい生き方がある。一つは自己修練であり、他は献身することである。しかしながら、この二つの理想像は矛盾するものではなくて、むしろ相互補完しあうものである。一方だけがそれだけで完全であることはできず、他方と無関係でもありえない。自分自身のためにのみ自己の修練をするとそれは自己本位となる。献身を生き方の唯一の原則とするならば脆弱を招く。しかし、献身のためという根拠をもって自己の修練をするなら、それは筋の通ることでもあり、また必要なことでもある。そのような根拠にたつ献身が本当に有意義なのである。
Now these two phases of our nature are implied in our college
motto"Mastery for Service." We do not desire to beweaklings. We
aim to bestrong,to be masters of knowledge, masters of opportunity,
mastersof ourselves, our desires, our ambitions,ourappetites, our
possessions.We will not be slaves whether to others,to circumstances,
or to ourown passions. But the purpose of ourmastery must be not
our own individualenrichment,but social service. We aim to become
servants of humanityin a large sense. In Englandthe officials are
called civil servants,and the highest officialsMinisters of State.That
implies a true conceptionof the nature of the work of an official.
His duty is not to command,butto serve. Infact, a man is great only
to the extent to which he rendersserve tosociety.
さて、この私達人間に生来備わっている二つの面が、われわれの校訓である”マスタリ−・フォア・サ−ビス”の中には含まれている。私達は弱虫にはなりたくない。私達は強くなりたい。知識をもち、機会をよく用い、自分自身をよく制し、自分たちの願望、野望、欲望、財産を正しく制御し、かつ活用することができる者となることを目指す。私達は決して他人や周囲の境遇、また自分自身の激情の奴隷にはならない。私達の修練の本当の目的は我々個人が富むことではなく、社会に奉仕することでなくてはならない。私達は広い意味での人類の僕たらんとするものである。イギリスでは公務員は市民の僕と呼ばれ、最高位の官吏は国務大臣とよばれる(ministerには「人に仕える者」という意味がある)。このことは公務員の仕事の性格の本質を言い表している。公務員の義務は命令することではなくて、奉仕することなのである。事実、人間の偉大さというのは、彼が社会に対して為した奉仕の度合の大きさによるものである。
This then is our college ideal, to becomestrong ,effective men,
notweak incompetents, men who will berecognized as masters. But
havingbecome masters we desire not toinflate, and enrich ourselves
for ourown sake, but to render someuseful service to humanity in
order thatthe world may be better forour having lived in it.
それだから強くて役に立つ人になること、弱い無能者にならないこと、修練をつんだ人と認められるような人になることが、私達の理想である。修練をつんでも、得意になったり、自分たち自身のために豊かになったりすることは望まず、むしろ、自分たちがこの世の中に住んだがゆえにこの世界が良くなるように、人類に何か有益な奉仕が出来ることをのぞむのである。
Our ideal business man is neither a gamblernor a miser ; but a
manwho succeeds because he is a master,a man whounderstands the
fundamentalprinciples of business, who knows what todo, and who
by industry andhonesty is able to succeed where other men fail -
a man whose objectin life is not merely to increase his creditbalamce
in the bank, butto use his financial power to improve thecondition
of society ; a manwho has public spirit, and a keen senseof social
duty. Such a man willbe revered by his employees, andrespected by
his customers.
私達の理想とするビジネスマン像は一発勝負師でもなければ、けちん坊でもない。それは修練を重ねたことによって成功する人である。ビジネスの基本的な原則を知り、何を為すべきかを知り、他の人が失敗するようなところにおいても精励と誠実をもって成功するよう な人である。私達の理想像は人生の目的が単に彼の銀行の預金額を増やすだけではなくて自分の財力を社会状況の改善に充てようとするような人である。また、公徳心をもち、研ぎ澄まされたような社会的な責任感をもつ人である。そのような人は従業員に崇敬され、顧客に重んじられるものである。
Ourideal of the scholar is not a kind of intellectual sponge thatalways takes
in, but never gives out until it is squeezed. But it isa manwho
loves to acquire knowledge not for its own sake, much lessfor the sake
of his own fame, but whose desire for knowledge is a desiretoequip
himself to render better service to humanity.
私達の理想とする学者像は、知識をいつも吸い込んでばかりいて、絞り出されるまで自ら力を発揮しようとしないスポンジのような人ではない。知識それ自体のためではなく、まして自分の名声のためではなく、人類に対してよりよき奉仕をすることが出来るようになりたいために、知識を得ることを愛する人である。
It is said that on the monument of a certain man there were cutthewords
"Born a man and died a carpenter." We desire no such fate. Forsuch
an end is failure. Nor would it be any greater succes if itwerewritten
" Born a man and died a merchant" - or " a millionaire" -or"a politician."
To be a man, a master man and at the same time a trueservant of
humanity is our ideal.
誰かの記念碑に「人と 生まれ、大工として死す」という言葉が刻まれていたということである。私達はそんな運命を望まない。そのような末路は失敗である。また、「人と生まれ、商人として死す」とか、「百万長者として」、「政治家として死す」とか書かれたとしても、成功でないことに変わりはなかろう。人となり、修練の出来た人となり、そして同時に人類の本当の僕となることが、私達の理想なのである。
(原英文;「商光」第1号、邦訳;新井節男)
明確で注目を惹くこの短い言葉「マスタリ−・フォア・サ−ビス」は関西学院のモット−であり、個人と社会との間を規律する重大な教訓である。
邦訳は「奉仕するために練達すること」である。ここに学ぶものは、みんな知識や技術に熟達し、自己の創造的天分を伸ばし、人格の完成に向かって努力しなければならない。しかしそれは、自己の名誉や栄達というような利己的な目的のためにではなくて、社会に貢献し奉仕するためのものでなければならない。社会福祉の増進を目指して自己を練磨し熟達させようというのである。
このモット−は関西学院に高等学部が発足したときに、初代高等学部長となり、また後に第4代院長として学院の発展につくしたC.J.L.ベ−ツ(CorneliusJohn
Light Bates)の考案によるものである。
高等学部の人格主義的教育を学生自身の脳裏に明確 に意識させるために、簡単な標語、警句を選ぼうということになり、ベ−ツ部長が"Mastery
for service"をカレッジ・モット−として、同時に木 村禎橘教授がカレッジ・ウオッチ・ワ−ドとして"Character"&"Efficiency"を提唱したのである。後者についてはここでは触れない。
ベ−ツは1877年、カナダ・オンタリオ州生まれでクインズ、 トロント、エ−ル大学で学び、ウエスレヤン神学校から神学博士をうけた宣教師であった。カナダ・メソヂスト教会が関西学院の経営に参加することに伴って、関西学院の教育に従事することになった。5年間の高等学部長、初代大学長を含む21年間の院長在任期間中には、学院の神戸原田か
ら西宮上が原への移転、専門学校から大学への昇格、そして第2次世界大戦突入という大問題、難問題が山積の時代であった。しかし、ベ−ツはカ
ナディアン的な大らかさと清貧に満ちた気風で事に当たり、今日の関西学院の校風を大いに培養した。
ベ−ツがカナダから日本にやってくる ことになったいきさつの中には、当時の世界歴史の流れが汲みとれるものがある。ベ−ツがまだカナダ・モントリオ−ルのウエスレアン神学校の学
生であった1899年(明治32年)、中国華北一帯に広がった義和団事件(北清事変1898〜1901)の最中に、当地のキリスト教会が襲われて
250名の宣教師が殺害されるという事件があった。
後進の地により優 れた社会の文化をもちこみ人々の生活をより豊かたらしめようという思いには、単に自分たちの宗教的思想をひろめようとするだけのものだけではなく、その地に生きる全ての人々の心とからだの真の健康を祈っての真剣
でそして遠大で熱烈な献身があったことであろう。しかし、現実にはすべての世の歴史にみるごとく、すべての努力が醜い政治的権力争いに巻き込
まれて、「心とからだの平穏の上にたつ本当に人間らしい生き方」を求めて共に生涯しようとする人々の多大な努力は押し潰され、ほんの一部のみがその目的を達成されるのを常としてきた。
義和団事件における 宣教師虐殺も政治がらみの不幸な出来事であった。中国の清朝末期の支配者は先進列強諸国の侵略によって、守旧派と洋務派に分かれて対立した。守旧派は潜在的に保守傾向にある農村の自営組織を抱き込んで戦力とした。結果的に守旧派は破れて、英露独仏米日伊の連合軍と手をくんだ洋務派が、一層の植民地化を容認しながら政治勢力を得ることになったので、勝てば官軍まければ賊軍で、守旧派に利用された農民達は悪者にされ、この事件
は団匪事件ともいわれる。欧米語では"TheBoxers'Rebellion"という。それは武器を持たない農民自営組織の中に、ボクシングや空手のような拳を使う強力な拳術をもった宗教的秘密結社・義和団があったことによる。
中国の拳術の系譜は、古代中国の康復と呼ばれる導引術、三国史 時代の華陀の五禽の戯、少林寺での達磨の易経、宋朝に張三豊によって考案された太極拳というように、養生健康術として発達してきたが、やがて
武器を持つことを許されない庶民の武術として拳術はひそかにひろがり、南船北馬の風土の影響をうけて、手技の南拳・足技の北拳へ、また南の軟
拳・北の硬拳という流れをもつようになった。
山東省付近の白蓮教の分派である義和団の拳は、武術としての拳に宗教的霊力をとりいれ、不死不傷の超能力をもつことを心酔させる魔法拳であった。
さて、 生活テンポと生活信条の極端に異なる先進国の物心両面にわたる侵攻にごうをにやした土着農民の怒りのほこ先が、対立する宗教リ−ダ−の指導のもとにキリスト教布教組織に向けられた。その背後には巧みであくらつな
政治的工作があり、利権をむさぼる一部の死の商人の暗躍があったのは当然である。
多くの善意がむくわれない、しかしそれを諦めない。フ ロンティア・スピリットは中国からカナダへ人材派遣要請の声を発し、「北支は呼んでいる。この間隙を埋めよ」(トロント集会、モット−博士)という呼びかけをした。これに応えて、カナダで300名の伝道志願
の若者が立ち上がった。
この中に、C.J.L.ベ−ツがいた。しかし、ベ−ツの東洋伝道への雄飛先は中国ではなくて日本であった。1902年10月 から1910年8月まで、東京と甲府でキリスト教伝道に従事していた彼は、1910年9月1日(明治43年)カナダ・メソヂスト教会の指示をうけて関西学院の教育に従事することとなった。そして1912年(明治45年)、専門部文科長兼教員という辞令をうけ、高等学部の初代部長に就任した。
ベ−ツは「わたしは天よりの啓示にそむかず」(使徒行伝26-19)というパウロのことばを好み、また「予言がなければ民はわがままにふるまう」
(箴言29-18)という句を多く引用して、つねに学生の目を大所高所に向かわせようとした。
「マスタリ−・フォア・サ−ビス」の生みの親、ベ−ツは高等学部の安定発展の基礎をつくって5年後の1917年(大正6年)に休暇帰国し、自国研修をおえた3年後に再来日し、第4
代院長に就任するが、その帰国の際に、将来の学院教育発展に向けての下準備も行っていた。
1918年(大正7年)の新しい大学令が公私立平等をうたい、私 立大学の設置が可能となった。従前より学院の学校教育と経営をその方向にむけようと相い計っていた学院関係者ならびに学生は、これを機に大学昇格へと熱をもやし、幾多の困難を克服しながら、のちに関西学院大学を誕生させた。その前年にカナダへ帰国したベ−ツはすでにこれを予知し、将来の大学教育スタッフの中に身心教育がしっかりと出来る人材を育成しようとして、高等学部・体操担当教授衞藤衞(エトウマモル)を自分の帰国に際して、アメリカに連れ行き学ばせていたのである。
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