関西学院健やかの歴史

フェアプレ−
2000.3.30

公明正大と敬神愛人の吉岡美国

 通称岩三郎とよばれた吉岡美国は1862年(文久二年)、京都で町奉行の与力頭の長男として誕生した。寺小屋で習字や漢籍を教わり、出来たばかりの京都中学で英語を学んだ。吉岡少年は秀才であった。明治十年西南戦争が勃発し、明治天皇が京都に巡幸された。そんなある日、吉岡少年は天皇臨席の場で外国書講読を行い、恩賜賞を受けたのである。のちに吉岡美国は兵庫ニュ−ス社(神戸)で邦文英訳の職についたが、当時の西洋知識の洪水的な導入が、我が国の社会思想とくに道徳面に大混乱を生じせしめていることをひしひしと感じ、憂国の念に深くかられていた。吉岡青年は一つのことに気がついた。西洋文化には宗教が伴っている。それを調べてみよう。丁度、ランバスが神戸に夜学校を開いたばかりであったので、これを訪れてキリスト教とは何ですか、と尋ねた。

 このことから吉岡とランバスの結びつきがはじまり、吉岡は西洋文化の導入にはキリスト教をその根底におかなければならないことを確認し、ついにはキリスト教徒としての洗礼を受けるに到ったのである。それは 1888 年 3月 4日(明治21年)のことであった。 関西学院の創設に吉岡美国が協力したことはいうまでもない。ランバスが原田村に面積一万坪の校地を確保したとき(1888.4.19) 、吉岡美国は当地の村長等との斡旋の労をとり、宣教団を代表して名義人となっている。そして同年10月11日に授業を開始した関西学院では教師として創業に参与したのである。

 当時の関西学院憲法第一条には、「関西学院の目的は、純正なる基督教に基き、日本帝国の青年の智識、道徳、ならびに霊性を涵養するにあり」とある。ランバスの心身教育思想を吉岡美国流に表現したものと読める。吉岡美国はランバスのあとを継いで24年の長きにわたって第二代院長をつとめ、関西学院の発展に献身的な努力を続けた。学院の建造物、校地の拡張、学院教育機関の拡充はいうまでもなく、学院教育の特色の明確化、実践にはたした吉岡の力ははかりしれない。キリスト教精神に基づき、人物を薫陶することを大前提として、聖書の教授と英語指導をその特色とした。アメリカからの宣教師と日本の生徒や教師との間の和衷協力にも力を発揮した。


「先生は幕臣であられたが、勤王の志篤く、常に皇室を尊び、国民生活の途に忠実ならんことを主張し、教育勅語の精神を重じ、実践し、教育にあたられた。更に基督教の敬神愛人の信仰理想に活き抜かれた。この基督教信仰と日本精神とが混済形をなして、先生の人格を養い、その人格的感化が、学院の経営、行政、育英、生活の各面に浸透していったのである。」(「父の俤」内・故吉岡美国先生の略歴 木村蓬伍 1958より)


 それは明治維新以降の知識人の望ましい姿としての「和魂洋才」を象徴している。「私の名前はヨシクニである。英語になおすと、Lucky hill,Beautiful countryである。」と時には冗談を言ったようであるが、自分自身を前面に出さない人、本質的な親近感のある人、儒者的な風格のある人、そしてあだ名はライオンというのが、教え子たちの印象として残されている。
そして、「自己を空くし自己を捨てひたすら神に仕え国に尽し世の為に努められた。無言の内に身を以て実践する至誠無私の徳性、この吉岡先生の徳性が学院教育の基調である。」と第五代院長神崎驥一は述べている。
吉岡がキリスト教教育精神の標語としての「敬神愛人」と、至誠無私の特性の簡潔表現の「公明正大」をことさらに愛していたことは、教え子達の追悼の辞に多く見受けられるところである。

 関西学院の憲法第一条にみるような目的を達成しようと、吉岡は率先して手作りの教育を実践してきた。その着実な歩みに、カナダ・メソヂスト教会が教育機関への合同運営を申し入れてきた。これまでのアメリカ南メソヂスト監督教会日本年会の単独経営に、カナダと日本の両メソヂスト教会が参入して三者による経営法人を結成し、社団法人関西学院となったのである。
そして1912年 (明治45年・大正元年) 従来からの神学部、普通部に加えて高等学部 (文科・商科) が設けられた。



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