関西学院健やかの歴史

ジュ・ド・ポーム
2000.2.28

祈りとフロンティアスピリット

 近代テニスの源流は、中世フランスの王候貴族に愛好されたラケットゲ−ム、すなわちジュ・ド・ポ−ムであるとされているが、この競技の初期の頃には皮手袋をつけた手の平でボ−ルを打ち合っていた。今日のように道具を使って力を発揮するのではなくて、自分のもっとも思いのままになる自分自身の「手」を用いて、ボ−ルに力をくわえて望む方向にこれを進めたのである。

 W.R.ランバスもまた、道具なしに自らの手足と口と懸命の祈りでもって、宣教の道に力を発揮した。イギリスからアメリカへ渡ったランバス家のル−ツと同様に、またアメリカから中国へ渡った自分の両親と同様に、アメリカ、中国、日本、さらにはアフリカへと伝道の生涯を歩んだランバスの生涯は、雄大な構想を手作りのやさしさと実行力で推し進めるものであった。

 ランバスが日本宣教部の総理としてやってきた時 (1896年) 、彼には何らの手持ちの道具はなかった。あるのは先祖ゆずりの開拓魂と神の道をより多くの人々に伝道しようとする燃えたぎるような情熱だけであった。彼はつねに全てのものの内の変わることのない中心として、イエス・キリストの道をおく立場を貫く強い信仰のクリスチャンであった。

 彼はつねに祈った。「あるべきようにあらしめたまえ」と祈った。

 神戸に住居をかまえたランバスが協力読書館をひらき、関西を中心とした伝道活動をはじめ、礼拝堂をつくり、日曜学校教室を開設するのには、想像を絶する労苦があったことであろう。

 彼は人々に対する愛と信頼をもち、光明とより良きものへの希望をもつ不断の楽天主義者であったという。しかし決してうわついたものではない。「そんなことは不可能です」ということを知らない強い意志をもち、限りなき前進への勇気をもつランバスは非凡な組織家、事業家であった。

 彼のすぐれた継続的、組織的、活動能力は生来の天与のものであろうか、それとも祈りによる賜り物であろうか。日本への着任の僅か2年後に、青少年のための普通 教育を授ける昼間学校と伝道者養成のための神学校の設立を計画した。ランバスの活力ある行動とその識見に呼応して、基金、寄付が集まり、校地がえられ、関西学院が設立された(1889.9.28) 。ランバスわずかに35才のことである。

「強い、やり手、ガンバリ屋、すごい!」と賛辞を送るが十分ではない。いつも前をのぞみ、信仰と希望の中につねに新しいものを、つねにより良いものを計画し、実現への努力をし、それをなし遂げていったランバスの生涯の行動力にただただおそれ入るばかりである。

 「地の果てまで」の著者山崎氏は、ランバスの生涯をつらぬく主軸として「謙遜、服従、純粋、祈り」を上げながら、同時にランバスの生涯は実に優れて活動的、実践的なものであった、と記している。それらは単にミッショナリ−・スピリットによるものというよりも、すべて人々に[手作りの慈愛]を届けようとしたランバスの心やさしい強さを表現している。

 本稿の筆者新井節男は、関西学院の心身教育の源流はここにあると考える。関西学院が創設された1889年、明治22年頃の日本の姿を歴史年表に見てみよう。大日本帝国憲法が発布され、前年には「君が代」が国歌に制定されてた。自由民権論が勃興し、鹿鳴館での仮装舞踏会がしきりにおこなわれ、婦人達の洋装化が進み、民間企業の興隆も盛んであった。反面 、軍部の力が強まり、大陸や半島への侵攻の度合いは増していた。東京に電灯がともり、東海道本線も全線が完成した。そして教育界では、小学校令・中学校令 (1886) が公布されていた。

 このような日本の夜明けの時代に創設された関西学院が、急速な国家政治、経済、社会、文化の発展に乗り遅れることなく、また独自性を失うことなく、着実な歩みを進めることが出来たことに関して、第2代院長、吉岡美国(YOSHIOKA YOSIKUNI)の果たした役割はまことに大きなものであった。



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