関西学院健やかの歴史

ラブオ−ル
2000.1.30

開拓者 ランバス

 テニスの試合が始まるとき、ネットをはさんでむかい合う両チ−ムに当然得点はない。しかし、試合のはじめにそれぞれの人に神の慈悲は与えられている。両チ−ムに「ラブ」という得点があたえられているのである。「ポ−ムをなさんとする諸君は、肉体を鍛え、精神を喜ばせるためにこれを行うべきであり、雑言をはいたり、神の名をみだりに呼んだりしてはならない。・・中略・・。最初のサ−ビスの打ちは神の打ちであり、これはご婦人またはお嬢様方へのプレゼントとよばれる」。1599年に印刷されたジュ・ド・ポ−ム (Jeu de Paum)の規則書第一条の条文である。この中世フランスの王候貴族スポ−ツの流れをくむテニスは、イギリスで近代スポ−ツとして完成したが、その根底には勝敗をこえた 優雅なやさしさ、まじめな敬虔さが流れている。
 その世界でもっとも古い歴史と伝統を誇り、世界スポ−ツのマナ−とファッションの源流に君臨してきたウインブルドン・テニス大会(全英オ−プンテニス選手権大会)が、100回 (1986.7) を迎えて大変革を見せた。あの生毛を思わせる純白でおおわれた白いボ−ルが100回記念大会を契機として黄色のカラ−ボ−ルに切り換えられたのである。テレビ時代に合わせてのお色直しである。

 関西学院も100周年 (1989.9) を迎える。過去の種々の歴史的変遷の中で、身心教育はどのような流れを示してきたか、近未来の構図はどうか、記念すべき大きな節目に歴史に残るような素晴らしい出来事はあるだろうか。

 ここでは視点を学院スポ−ツの華やかな活動にではなく、体育科教育の立場において論を進めることにする。
 イギリスでウインブルドン大会がうぶ声をあげた1877年は、ウオルタ−・ラッセル・ランバス(Walter Russel Lambuth 1854〜1921) がアメリカでヴァンダビルト大学を卒業し、ディジ−・ケリ−と結婚、サンフランシスコから中国大陸に向かい、上海郊外に麻薬中毒療養所を開設した年でもあった。

 1870年から1890年にかけての世界とはどんな時代であったのか。
 国民主義、資本主義、社会主義が成長発展期にあって国際関係は複雑化していた。国際的な主要事件としては、プロシャとフランスの間の普仏戦争、ドイツ・オ−ストリア・ロシアの三帝同盟、19世紀末から第1次世界大戦までのバルカンにおける列国の勢力関係を画定したベルリン会議、中国とフランスの間の清仏戦争、英領インド帝国成立、仏領インドシナ成立、英仏のエジプト・チュニスなどへの侵攻などがあり、列強が後進地域に活発 に進出し、とくにアジアの植民地化が進められた時代であった。

 アメリカは南北戦争を契機として産業資本が繁栄し、イギリスを追い越して世界最大の生産力を誇る工業国へと成長し、鉄道、鉄鋼、石油をはじめ多くの産業が隆盛を誇っていた。また、西海岸を目指してのフロンティアが一応の終末を迎え、こんどは新たにそのほこ先を海外に向けはじめていた。アメリカの文化は古い歴史をもつ西欧とは異なり、実際主義的な考え方、すなわちプラグマテイズムに根づいている。恵まれた自然環境の中で、自分たちがつくり上げた豊かな人間社会、その制度や生活様式に対する自負心は殊更に強く、これを海外に広めていかなければならないという使命感がややもすると先行する積極的な気運がアメリカにはみなぎっていた。
 これより先、中国(清)とイギリスの間に起こったアヘン戦争とその終結にならって、中国に不平等条約を締結させたアメリカは、イギリス、フランスとともに中国大陸の地にその政治、経済、文化的影響力を強く示そうとしていた。また、二百数十年の鎖国政策下にあった日本に対してもペリ−の黒船をもって和親条約を成立させていた。それは明治維新に先立つこと十三年、安政元年 (1854年) のことであった。

 そんな1854年、ニュ−ヨ−クからアフリカ、インド洋、南シナ海を旅すること4カ月半、長旅をしいられながら伝道への情熱に燃えた若い宣教師のカップルがミシシッピ−州年会の最初の中国宣教師として上海に上陸した。関西学院創設者 W.R.ランバスの両親、 J.W. ランバスとメリ−夫人であった。メリ−夫人は上陸2か月後に、神の祝福の印としての男の子の産ぶ声を夫とともに聞いた。ウオルタ−の誕生である。
 ル−ツを英国にもつランバス家は代々熱心なキリスト者で、メソジスト教会の伝道開拓に多大な貢献をした宣教師一家であったから、この産ぶ声の男の子は将来「世界市民にしてキリストの使徒」という賛辞を墓碑に刻まれる運命のもとに生まれてきたといえるのである。

 開拓者の逞しさと大胆さ、宣教師の熱情と幻を併せもってこの世に生まれ出たウオルタ−・ラッセル・ランバスは、その後アメリカ・ヴァンダビルト大学で神学を修め、ニュ−ヨ−クのベルビュ−病院で臨床医学の修業をつみ、ドクタ−・オブ・メディシンの学位 をうけた。さらにスコットランドのエデインバラ、イギリスのロンドンで医学教育をうけ、のちに「医療伝道」 (Medical Misson) という教科書を著したように医療宣教師として活躍したが、その初期の活躍の場は生誕の地の中国大陸であった。すなわち、前述のように第一回ウインブルドン・テニス大会開催の同年における上海麻薬中毒療養所開設がランバスの医療伝道の端緒であった。本格的な中国伝道の後、日本伝道部ス−パ−インデント(総理)に任命されたランバスは、4年間の日本での伝道生活を送ったが、やがてアメリカ、南メソジスト監督教会の伝道局総主事、さらに監督(ビショップ)として活躍した。この4年間の日本での開拓伝道の業績の一つが、関西学院の創設であるが、その詳細ならびに生涯については、「地の果 てまで−ランバス博士の生涯−」(山崎治夫、啓文社 196 3)にゆずることにする。



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